効能。

 

と言っても

病気に対する薬の効能ではない。

 

今回は、

落語や講談の効能なので

悪しからず。

 

縁あってあたしは

住まいも川向こうだから

場所的にも恵まれていたし、

祖母も親も歌舞伎や文楽

落語が好きだったから

割と早くに落語にも講談にも

はまることが出来た。

 

だからって

早期の情操教育が…などと

知りもしない教育論を進めようとは

これっぽっちも思わない。

 

今回は何に気づいたか。

 

巷を賑わせている

神田伯山先生のことである。

 

まだ先生が松之丞と呼ばれていた頃

あたしは日暮里で初めて

先生の高座と対峙した。

 

それまで講談は一龍斎貞水先生。

怪談をライティング等で

わかりやすく

誘ってくださるものに甘えていたのだ。

 

その時松之丞さんは

釈台に張り扇のみ。

 

まくらでひとつふたつ

くさしたあと、

赤穂義士伝が始まった。

 

"荒川十太夫"だった。

 

高座には当然の事ながら

松之丞さんだけ。

何の演出も無しか、と思ったのだ。

それが普通なのに。

 

だが直ぐに気が変わった。

ぐんぐん引き込まれた。

 

泉岳寺に墓参りをする荒川十太夫

何とも言えない息遣いが聞こえてくる。

物頭役二百石という役職の

いわば学歴詐欺並の

嘘つき荒川十太夫の気持ちが

あたしに乗り移り

ビクビクしなからひれ伏し詫びる

荒川十太夫と一緒に玉砂利に額をつけていた

気がしたのだ。

 

 

そこは演芸場ではなく

紛れもなく泉岳寺だし

松之丞さんではなく

嘘がバレて首を垂れる

荒川十太夫しかいないのだ。

 

こんなあたしの想像力が凄いでしょ、と

自慢したいのでは毛頭ない。

 

講談や落語という話芸は、

言葉で

会場を操り

人の感情をも操れる力がある。

 

何度も何度もライブで

落語や講談を見るにつれ、

自分の想像力や感受性が

変化していくのに気付くのだ。

勿論、

寄席にいてネタに入り込めない時も

多々あった。

原因は、

演者との相性ばかりじゃない。

あたしのコンディションだったり

タイミングだったり。

だからこそ何度もライブで見ることには

意味がある。

研ぎ澄まされるのが

だんだん分かるから。

 

そしてこの能力は

他の分野にも応用が効くのだ。

 

音楽を聴いたとき。

読書。

それから

人との会話。

想像力や感受性は必要不可欠。

むしろ功を成すものだと思う。

 

落語や講談は

笑わせて楽しませてくれる芸。

だが、それだけではない。

その効能は無限なのだ。

 

 

#神田伯山

#落語

#講談